上野新平シリーズ(第44話):植木屋のお爺ちゃん(前編):By源次郎


桜の花びらが散って、水面に『花筏(はないかだ)』を浮かせている時期に、あられと雪が降るといったヘンな天候だった4月も終わった。
その後の大型連休の後に、夏日が数日続いた。
地球温暖化が心配されているものの、どう解決していくのだろうか。
各国の対応がイマイチ見えて来ないのが気になる。
6月に入ると約束されたように鬱陶しい長雨だ。
しかし、此の雨も期待した水不足の解決にならないらしい。

上野新平(53)は、新築マンション現場事務所の2階から、ぼんやりと外を眺めている。
小降りになってから、現場事務所から離れた有料駐車場に駐車させてきた会社の車に戻らなければならない。
車には傘を置いているのだが、ココに来た時は雨が止んでいたので、これ幸いと傘をささずに来てしまっていた。

「上野主任、此の雨は止みそうにありませんよ。タクシーで戻られたらどうですか。」
副主任が熱いお茶を入れて差し出しながら言ってきた。
「おお、有難う。有料に置いて来たから、そうもいかないんだ。」
お茶を受け取りながら、恨めしそうに外に目をやる。
「あははっ、それは困りましたね。私の傘を持っていって下さい。百均のビニール傘ですが。」
「それでは、君が困るだろ。」
「大丈夫です、誰かの車に便乗しますから。」
「そうか、有難う。助かったよ。」
現場敷地を出て駐車場に向かう。
雨脚が強い中、狭い道路で歩道が無いが道路側路体の白線の内側を歩く。

『バシャッ、ビシャッ!』
新平が歩く方向とは反対方向から走って来た軽ワゴン車が、思いっきり水溜りの雨水を掛けて通り過ぎた。
振り返って車を確認したが、雨に煙ってナンバーまでは読めなかった。
「ツイテいないときは、こんなもんだ。」
びしょ濡れにされた上着とズボンだったが、ハンカチで拭いても変わらない
だろうと駐車場に急いだ。
駐車場が見えだした所まで来た時、向こう側を走ってきた軽ワゴン車が新平を追い越したところで停車した。

『あの車じゃなかったかな』
車からお爺ちゃんが降りて、土砂降りの中、走行する車を避けながら新平に近付いて来る。
「すみません、泥水掛けて気付きませんでした。これ、申し訳ありませんが洗濯代にして下さい。」
「どうしたんですか、傘に入ってください。」
頭を下げているお爺ちゃんを引き寄せて傘の中に入れたが、既にずぶ濡れになっている。
「あ、私は良いんですが。ホント気付かずに済みませんでした。後ろから来た車の人にクラクションで呼び止められて聞きました。」
「そうでしたか、掛けられた時は、ムッとしましたが、此の雨ですから、とっくにずぶ濡れでしたので、お気遣い要りませんよ。」
「いいえ、これだけは洗濯代に…。」
「わざわざ戻って来られたんですか、恐縮です。でも洗濯代なんて要りません、作業服ですから汚れていましたし。」
「それでは、私の気持ちが治まりませんので、コレだけは…。」
どうしても、洗濯代を受け取って貰いたかったようだが、戻って来て詫びて貰っただけで充分だった。

辞退して立ち去る新平を、雨の中で見送るお爺ちゃんを残して急ぎ足で駐車場に入った。
『人の良さそうなお爺ちゃんだったな』
駐車場から出て、付近を見回したが、お爺ちゃんの姿は無かった。
こんな雨の中を、わざわざ戻って来て詫びるなんて、今時、優しい人だ。新平だったら、どうしただろう。
自問自答しながら、ずぶぬれで道路を渡って来てくれた、可愛いお爺ちゃんを思い出していた。

会社で、通勤服に着替えようかとも思ったが、ロッカーに替えのシャツが無かったので、そのままの作業服で帰って来た。
自宅に戻って、作業服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びてから晩御飯の支度に掛かる。
ご飯は、まとめて一膳ずつビミール袋に入れて冷凍しているので電子レンジに掛けるだけで、ホカホカしたのが食べられるが、惣菜は、その都度作らなければならない。
今夜は、同じように冷凍していた、善吉お爺ちゃん手作りのカレーで我慢することにした。

深鍋に冷凍カレーを移し、焦がさないように弱火に掛けて混ぜているときだった。
「何だ今夜はカレーか。」
激しい雨音で気付かなかったが、勝手に上がり込んで来た善吉お爺ちゃんが後ろに立っていた。
「わ、吃驚させないでよ。」
「声掛けたんじゃが、何か物思いに耽っていたようだったな。」
「そうですか、別に何も考えていませんでしたが。」
「おい、手を休めるな。焦がしちゃうぞ。」
「あ、そうだった。」

新平は、無意識に昼間に会った、ずぶ濡れのお爺ちゃんのことを思い出していたようだ。
そんな考えを、見透かされたようで慌ててしまった。
「新平、顔が赤くなってるぞ。」
「そんなこと無いって…。」
「あはははっ、これな、ゴマ豆腐作ったんだ。食って見てくれ。」
「すごいな、お爺ちゃんが作ったんですか。」
「ああ、時々こんなのも作ってる。ワシが好きなんだ。」
「今度教えてよ。」
「まあな、授業料高いぞ。はははっ。」
ガスレンジの火を消して、お爺ちゃんに抱きつき唇を合わせる。
善吉お爺ちゃんの奥さんが曾孫の付き添いを終えて帰ってから10日余りになる。

どちらからとも無く、最近は、ゆっくりした時間が持てず、こうした時に軽くキスするくらいだった。
「うふふ、有難う。じゃ、またな。」
心残りであったが、オデコにキスして別れた。

数日降り続いた雨も中休みだろうか、からっと晴れた日の昼過ぎ、現場に出かけようと会社の駐車場に来たところで携帯が鳴った。
「はい、上野です。」
「あ、主任。今どちらですか。」
「お、佐々木ちゃん。会社の駐車場だよ、午後2時からの工程会議に向かうんだけど、現場からの催促かな。」
電話は、受付の女子事務員からだった。
「いいえ、お客さんが、上野さんを尋ねていらっしゃっています。」
「あら、そう。どうしようかな、何方ですか。」
「松木緑園の社長さんです。」
「松木、緑園? 知らないなぁ。営業かな。カタログと名刺預かっててよ。急いでいるんだ。」
「はい、判りました。お疲れ様。」

工程会議でも『松木緑園』ってのを思い出そうとしたが心当たりが無かった。
恐らく、自宅の庭に植木でも植えないかと営業に来たんだろう。それにしても、自宅でなくて会社にまで来るって、あつかましい。
多分、お節介な福島お爺ちゃんの奥さんが教えたのだろう。
退屈な工程会議から解放されて、会社に戻ったのが午後5時を過ぎていた。
机の上の伝言メモに目を通して、最後に名刺だけがクリップで挟んだメモが残っていた。

『松木緑園・社長・松木政治』と書かれていたが、伝言は書かれてなかった。
『なんだ、やっぱり営業だったんだ』
破いて捨てようとしたが、隣の福島お婆ちゃんの知り合いだったら申し訳ないからと、シャツのポケットに入れて帰宅した。

「こんばんは、お出掛けですか。」
善吉お爺ちゃんの奥さんが、家から出て来て門扉を閉めているところだった。
「あら、新平さん。お帰りなさい、天気が良くって良かったわね。」
「そうですね、週末まで続いてくれたら良いんですが。布団が干せなくって困っています。」
「お布団くらいだったら、言って下さいな。陽が落ちる前に、取り込んであげるわ。」
「有難う御座います。今から、どちらへ。」
「自治会の作業なの、『今夜は、お前が行け』なんて言うのよ。」
「作業って、夜にですか。」
「そうなの、県の広報誌がタブロイド版って言うのかしら、それを各家の郵便受けに入れられるサイズに折る作業なの。」
「大変ですね、お疲れ様です。」
「有難う、でわね。」
「あ、そうだ。奥さん、松木緑園ってご存知ですか。」
「松木? 知らないわ。植木でも植えるの。」
「いいえ、そうじゃ無いんですが…。」
「そう、でわね。」
「あ、お引止めしました。行ってらっしゃい。」

お婆ちゃんじゃ無かったら、善吉お爺ちゃんだろうか。
寝室に入って着替えをしてて、シャツのポケットから名刺を出して枕元に置いた。
ズボンを脱いで、褌一枚になったときだった。
「新平、どこだ。」
「や、お爺ちゃん。只今、う、う、ううーん。」
いきなり、善吉お爺ちゃんに抱きつかれて唇を吸われてしまった。
「ちょ、ちょっと待ってよ、着替えたいから。」
「着替えは、後でええから。ちんぽ舐めさせてくれ。」
「お、おお…、どうしたの。あ、ああ、あぁーん。」
善吉お爺ちゃんが、言い終わらない内に、新平の腰を掴み、褌の横からチンポを引っ張り出して咥え込んでしまった。
「悪いお爺ちゃんだ。奥さんを自治会に行かせて…、あ、あ、ああ…。そ、そんなに、あ、ああ、射っちゃうよ、あ、あうっ…。」
「いいから、射けっ!」
「だ、駄目だよ…、ね、ねね、替わろうよ、あ、ああ…。」
そう言いながらも、お爺ちゃんの頭を両手で掴んで腰を前後させる。
「ワシは、ええから。たっぷり飲ませてくれ…。」
「そんなぁー、駄目だって。あ、ああ、あぁー。うんっがぁ、でる、でる、射くっ、射きます。」
「お、おお、う、うぅーん。たっぷり出たな、うまかったぞ。」
「・・・・・、い、いいっ。」
「相変わらず元気がええなぁ。」
「お爺ちゃん、お風呂入ったの。」
「うん、とっくに済ませた。キスしよう。」
「う、う、あう、あう…。」
サカリが着いたような、善吉お爺ちゃんが、やっと落ち着いたようだ。
「ね、お爺ちゃん。松木緑園って知ってる?」
「なんだい、急に…。」
「いや、知らなかったらいいんだけどね。」
「軽のトラックに、そんな名前を書いたの見たことあるがなぁ。」
「そう、お爺ちゃんも知らないんだったら仕事関係の人かな。」
「そいつが、どうかしたのか。新平のストーカーだったり、いひひ。」
「そんなんじゃ無いんだよ。」
「新平は、ええオトコだから心配だな。」
「はははっ、ヤキモチ?」
「アホ、そんなんじゃ無い。でも新平は、ワシだけのものだからな。」
「わ、独占されちゃった。」
「じゃ、帰るからな。そろそろ婆さんが帰って来るからな、有難う。」
「うん、有難う。最近淋しかったから。」
「そうか、新平は可愛いな。あっはははっ。」

帰宅早々、暴漢に襲われた気分だったが、考えてみたら久し振りの射精だったようで、気持ち良かった。
夕食後、ソファーに寝そべって夕刊に目を通していたら電話のベルが鳴った。
「上野です。」
「新平さん、スイカが冷えているの、持って行っても良いんだけど、一緒に如何かしら。」
「有難う御座います。初物ですね。」
早速、善吉お爺ちゃんの家にお邪魔した。
「お呼び頂き、遠慮無くうかがいました。」
「どうぞ、上がって頂戴。お呼び出しして、ごめんなさいね。」
「いいえ、早速頂きます。あれ、オジさんは、お休みですか。」
「一緒にって言ったんだけど、さっさと自分だけ食べて引っ込んだみたい。野球の中継でも見てるんじゃないかしら。」
善吉お爺ちゃんにしてみたら、奥さんとの同席に後ろめたい気持ちがあったのかもしれない。駄々っ子みたいで可愛い。

「何か言ったか。」
奥の部屋から善吉お爺ちゃんが聞いてきた。
「こんな話は、良く聞こえるのよね。おほほっ。」
その晩は、帰りがけに善吉お爺ちゃんと、ちょっと顔を合わせただけで帰って来た。

「佐々木ちゃん、今日は受付じゃなかったの。」
お茶を持ってきてくれた女子社員に声を掛けた。
「ええ、今日は、午後からなんです。」
「ああ、そうだったの。ところで先日私を訪ねて来た松木緑園って人、覚えてないかな。」
「ええ、名刺だけお預かりしましたので、机に乗せていたはずですが。」
「うん、名刺は確かに載ってたよ。有難う。」
「どうかされましたか。」
「いやね、心当たりが無かったんで気になってたんだよ。」
「あら、そうだったのですか。あの方、人の良さそうな可愛いお爺ちゃんだったので覚えていましたが。」
「そう、お爺ちゃんだったの。」
「ええ、ダークグレーのスーツ着た可愛いお爺ちゃんでした。営業でも無さそうで、此の会社に上野さんっていらっしゃいますか、と聞かれました。」
「ふーん、そうなの。有難う。」
「そうそう、又参りますとか、仰いましたよ。」
「営業じゃないんだ。じゃ何だったんだろね。はははっ。」
やっぱり気になる松木緑園だった。可愛いお爺ちゃんだったということも気になる。
あの時、会っていれば良かったが、急いでいたので残念だった。
「上野主任、受付にお客さんだそうです。内線の2番です。」
印刷室で、図面をXYペンプロッターに出力中だった。
「はい、有難う。」
出力されている図面の流れを確認しながら受話器を上げた。
「お待たせ、上野です。お、吉田ちゃん。私にお客さんだって。」
「はい、松木緑園の社長さんです。」
「あれ、松木緑園の…。知らないんだけど電話に出てもらえないかな。」
応接室でも良かったが、出来たら外の喫茶店ででも、ゆっくり会って見たかった。
「は、すみません。もしもし、上野さんですか。」
「はい、上野です。」
「申し送れました、先日、土砂降りの雨の中、ご迷惑かけ失礼しました松木です。」
「ああ、あの時の…。でもどうして私と判ったんですか。」
「作業服に会社名とお名前が書いてありました。」
「ははっ、そうでしたか。悪いこと出来ないですね。」
「上野さんは、何も悪いことされていませんよ。今日は改めてお詫びに伺いました。ご迷惑かもしれませんが。お時間が有りましたら、お会いしたいのですが。」
「それは、わざわざ恐縮です。10分ほどしたら、手が空きますから、それまで待っていただいて宜しいですか。」
「はい、是非お会いしていただきたくて参りましたので、、待たせていただきます。」

『スーツを着た可愛いお爺ちゃん』
佐々木ちゃんが説明したのを思い出し、飛んで行って抱きしめたかったが、
作業を途中で止められなかったので、先日、不動産屋のお爺ちゃんと待ち合わせた喫茶店で待ってもらうことにした。
会社の応接室でなく、プライベートな会話が出来る場所を選んだ。
もちろん新平の助平心が、そうさせた。

「中島君、すまんが、あと10枚ほどだけど、出力が終わったら、私の机に纏めて載せててよ。」
近くにいた設計スタッフに頼んで会社を出て、松木お爺ちゃんを待たせている喫茶店に急いだ。

カウベルを鳴らして喫茶店に入る。
例のマスターは、カウンターに並べた、カップや皿を布巾で
『キュックキュック』
と拭いている。
掃除を済ませた時間だったようだ。

「上野さん、いらっしゃいませ。お待ちですよ。」
ニッコリ微笑んだ、マスターが、奥のテーブルに座っている松木お爺ちゃんを掌を上向きにして指して教えてくれた。
「有難う御座います。え、私の名前を・・・。」
「はい、何時だったか不動産屋の大橋さんが見えまして噂しました。」
「わ、気になりますね。悪口でも言われたのでしょうね。」
「はははっ、そんなこと有りませんよ。大橋さんは、その後何度かお見え頂いています。」
「そうですか…。」
何となく気になる、不動産屋の大橋お爺ちゃんだったが、いまは松木お爺ちゃんの方が気になる存在だった。

二人の会話が聞こえたのだろう、黒に近い濃紺のスーツを着たお爺ちゃん
が椅子から立ち上がって新平が近付くのを待っていた。
70過ぎで白髪混じりの短髪だ。
「すっかり、お待たせして済みません。上野です。」
「ああ、確かにあの時の上野さんだ。松木です、お忙しいのに押しかけてしまいました。ご迷惑ではなかったでしょうか。」
「いいえ、私も、もう一度お会いできたらと思っていましたので、お目に掛かれて嬉しかったんです。」
「そうですか、こんなお爺ちゃんに会いたかっただなんて嬉しいと言うより恥ずかしくなります。」
顔を赤らめて恐縮したお爺ちゃんが、又可愛い。
「ほんと、また、お会い出来るなんて思っていなかったものですから……。」
差し出された手を両手で包み込んで握ってしまった。
「あの、座りましょうか。」
「あはははっ、そうでした。嬉しくってアガってしまいました。」
「その節は、大変ご迷惑掛けました。改めてお詫びします。」
「そんな、迷惑だなんて、私だって知らない内に同じことしているコトでしょうから、もう忘れましょう。」
「上野さんって、やっぱ思ってた通りの優しい人でした。」
「わ、光栄です。松木さんみたいな素敵な方に褒められて嬉しいですね。」
大した話が無いまま、コーヒーを飲み終わったら、手持ち沙汰で、椅子を立ってしまった。

このまま、話すことが無くっても、松木お爺ちゃんの顔を見て過ごしたかったが、出力した図面を現場に渡さなければならなかったので会社に戻る。
辞退したが、手土産にと菓子折りを持たせられてしまう。
別れ際、思い切って再会したいと言ったら、喜んで携帯電話番号を交換してくれた。
「こんな爺ですが、是非逢って下さい。」
とも言われて新平は、その場で抱きつきたかったが、そこまでは出来なかった。

「上野主任、ご馳走様でした。お茶のお代わりは如何がですか。」
松木おじいちゃんから持たせられた菓子を現場事務所に持って行って、工程会議の後、皆と食べていた。
副主任が急須を持って近付いて顔を覗き込む。
「どうかしたか。」
「どうかしたのは上野主任でしょう。」
「え、どうしてだ。」
「いやに機嫌が良くって、会議中もニコニコしていましたよ。宝くじでも当たったんじゃないですか。」
「アホ、そんなことだったら、菓子折りでなく酒樽持って来るよ。」
松木お爺ちゃんと、近い内に逢えると思うと嬉しさが湧いて来て、隠しきれ無かったようだ。

翌々日、さっそく松木お爺ちゃんから携帯に電話があった。
出社してその日の行動を考えているときだった。
マナーモードにしていた携帯のバイブがデスクの上で振動している。
此の時間帯だと決まって現場からの作業員配置の報告が多い。

「お待たせ、上野です。」
「おはよう御座います。松木です。」
電話の近くで道路工事でもあっているのか、バックの騒音の中から、待ち焦がれた松木お爺ちゃんの声が、かき消されるような、か細い声が聞こえてくる。
「お待ちしていました。おはよう御座います。上野です。」
「ああ、良かった。一度間違って違ったトコに掛けてしまって、慌ててかけ直してみました。」
泣き出しそうな声にも聞こえる。誤発信して怒られたのだろうか、可哀想で走って言って抱きしめて慰めてやりたかった。

昼食に誘われ、出かけるまでの時間を何度も気にしながら待った。
こんなにまでも、午前中の時間を長く感じたことが無い。
昼食は、繁華街から外れた静かなシティーホテルのレストランだった。
会社を出る前に、女子社員から、スーツに着替えたのを見られてヒヤカサレてしまう。
「あら、上野主任ったら、食事に行くのにお洒落してどうしたんですか。」
「うん、お客さんの接待なんだ。」
「珍しい、夜の接待じゃ無くってお昼ですか。安上がりですね。」
「ああ、打ち合わせもあるからね。」
「それで判ったわ。」
「何だい。」
「だって、時間ばかり気にしてたでしょう。」
「うん、気難しい人だから、遅刻すると大変なんだ。」
「まあ、大変ですね。お疲れ様。」
女の子って、仕事しているようで他人の行動までチェックしているのだろう。

松木お爺ちゃんとは、その後、数回昼食に誘われたが、
「今度は飲みにでも行きましょう。」
と誘ってみたが
「有難う、そのうちに是非お願いします。」
との返事だけで一度も承諾してくれない。

こうして何度も昼食を一緒にするのだが、新平が望んでいる
『肌を合わせたい』
といった雰囲気が持てなかった。

時々冗談めかしに
「松木さん、好きです。」
とも言ってみたが、悲しそうな目で
「有難う。」
との返事だけだった。

「どうです、ゆっくりドライブして温泉にでも行きませんか。」
「ああ、温泉も暫らく行っていないから、良いでしょうね。その内、仕事がひと段落したらお願いしましょう。」
ニコニコして答えてくれるが、その後悲しい顔をしてくる。
全くのノンケでは無いようだが、いざとなると何故か引いてしまわれる。
新平自信も、無理な行動に出て、こうした昼食するだけの付き合いが壊れるのを恐れてもいた。
また、一方的な片思いででも良いとも思った。
時々、一時間ほど、大好きになった松木お爺ちゃんと同じ食事をして、同じ空気を吸っているだけで満足にも思えてくる。
しかし、時々悲しい顔で新平の顔を見てくるのが気になっていた。

現場事務所を出て、真っ直ぐ会社に戻っても、まだ時間が有った。地下鉄を降りて会社とは反対方向の喫茶店に向かう。

そろそろ、松木お爺ちゃんからの食事の誘いがあってもいいんだが、忙しいのだろうか。
途中、携帯電話の着信があった。
『お、心が通じたのだろうか、松木お爺ちゃんからだ』
道端の電柱が建っている所に寄って受信ボタンを押す。
「はーい、上野です。お元気でしたか。」
嬉しくなって声のトーンも上がっていた。
「どうしましたか、松木さん。」
電話は無言のまま切れてしまった。
『ヘンだな、確かに松木お爺ちゃんだったが』
歩きながら、着信履歴を確認したが、間違いなくお爺ちゃんからだった。
『プルルルー』
又、松木お爺ちゃんの番号が表示されている。
着信ボタンを押して、黙って耳に当てて、お爺ちゃんの声を待った。
「もしもし、あんた、上野さんかい。」
新平より若い男のようだが、低い声で聞いてくる。
「はい、上野ですが。何方ですか。」

「松木の娘婿だけど。あんた、親父を苦しめないでくれ。また今後一切電話したり逢ったりしないでくれ。それだけだ。ツー、ツー、ツー…。」
電話は一方的に喋って切れてしまった。何だったのだろう。

上野新平は、どうして松木お爺ちゃんの娘婿が、お爺ちゃんの携帯で電話を掛けて来たのだろう。
『親父を苦しめないでくれ』
『今後一切電話したり逢ったりしないでくれ』
喫茶店に向かってたが、引き返して会社に戻り、定時に退社して帰宅した。
帰宅してからも、娘婿が、言った言葉を繰り返し思い出しながら呟いていた。
その後、ここ数日は、現場にも顔を出さず、会社で雑用みたいな書類の整理や、官庁に提出した申請書の控えに目を通して過ごした。
溜息ばかりが出て、仕事をする気にもならない。

思い切って、松木お爺ちゃんの携帯に電話をしてみたが
『使われていない』
とのメッセージが流れるだけだった。
『携帯電話も解約してしまっている、何があったのだろうか』
夕方、会社を抜け出し、考え込んだまま、松木お爺ちゃんと待ち合わせにも使った喫茶店に向かった。

「いらっしゃいませ。」
若い女の子のウエイトレスの声で我に返った。
夕方でもあったためか喫茶店はガランとして、新平以外は、カウンター近くにサラリーマン風の二人連れだけだった。
テーブルに座る前にコーヒーを注文する。
窓際のテーブルに座って、ぼんやり外の通行人や車の流れを眺めて、コーヒーがくるのを待った。
「上野さん、いらっしゃい。お待たせしました。今日は、お一人ですか。」
此の時間は、ウエイトレスがコーヒーを持ってくるのだが、厨房から、わざわざマスターが出て来て持ってきてくれた。
「あ、マスター。」
新平が吃驚した顔でマスターの顔を見上げた。
ニッコリ微笑んだマスターが、顔を横に倒して見つめていた。
「あ、ここにお願いします。」
手ぶらで会社からでなかったので、不要な書類を詰めて持参していた。
それをテーブルから下ろして、コーヒーを置くスペースを作った。
マスターは、コーヒーを置いた後、付近を見渡して意味ありげに小声で新平の耳元で囁いた。

「一昨日これを、お預かりしていました。宜しくお伝え下さいとのことでしたよ。」
マスターは、ベストのポケットから、二つに折りたたんだ白い封筒を、新平の手に渡して立ち去ろうとした。
「は、誰からですか。」
マスターの背中に問いかけると、マスターは、振り返って微笑みながらウインクしただけでカウンターの奥に入って行ってしまった。

ドキドキしながら封筒を丁寧に破いて、中から一枚の便箋を取り出す。
それには、走り書きされた文字が書かれていた。
『上野新平様。松木です。先日は、娘婿が大変失礼な電話をしまして申し訳ありませんでした。お会いしてお詫びしなければならないのですが、暫らくお待ち下さい。なを、新平さんの携帯番号を削除してしまって買い換えましたので番号が判りません。電話には出れないかもしれませんので、ワンギリで掛けてて頂きませんでしょうか。是非お会いしたいので、年寄りの我侭かもしれませんが宜しくお願いします。松木』

それだけの文章と、新しい携帯電話番号が書かれただけだった。
何があったのだろうか、新平には、これだけでは、お爺ちゃんの様子が皆目判らなかった。
その場で、さっそく携帯からワンギリでかけて置いた。
それから一週間ほどして、待ち遠しい電話があって食事に呼び出されたが、
新平が考えられない真実が語られることになった。

(つづく)

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(本作品は、旧「老いのときめき」に掲載されたものを、庵主さん、源次郎さん及び、新「老いのときめき」オーナーのご了解を得て、転載させて頂いたものです。)

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